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関本の義人【下田隼人】~知らない事を片っ端から調べてわかりやすく寄り道をしながら楽しむ~ 南足柄市・関本

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こんにちは銀次郎です、今回は自然豊かで金太郎推しの強い南足柄市の関本にある龍福寺(竜福寺)を訪れました。 この日 龍福寺では、年に1回のハスの花の入れ替えをしているようです。ハスの花はこんな感じです。作業されている方に話しかけていただきましたが、かなり大変な仕事のようです。回収されたハスは初めて見たが、ちょっとグロテスク、、、! また驚いたことに新しく植えたハスの肥料にはニシンの干物など魚を使うことがあるらしいんです、これによってキレイな花が咲く 身欠きニシンが肥料として入っています ハス花言葉は、「清らかな心」「休養」など さて、こちらの龍福寺ですが、こちらの大きな石碑がとても目立ちますよね、こちらは下田 隼人翁(しもだはやとおう)の石碑です めっちゃでかい。 下田隼人という人物はここ南足柄市で大変有名な人。江戸時代、自分の命を犠牲にし農民を守った”西郡の義民”と言われ、この地方で語り継がれる伝説となっていて、地元劇団(※小劇団こゆるぎ座)の演目にもなっています。 今回はそんな下田隼人の功績をその由来の土地の映像と難ありなイラストと共にできるだけ軽く分かりやすく、たまに寄り道をしながら振り返りたいと思います。 なお、隼人の歴史を裏付ける当時の資料は存在しません。隼人に関する資料を残すことを小田原藩が禁止していたという背景もあり、地元の村人たちの間で全て口伝によって伝わってきました。 つまり今回のお話はフィクションかもしれないし、少しオーバーな史実かもしれない!!  舞台は歌舞伎界のスーパースター初代 市川團十郎が産まれた1660年頃の小田原市に隣接する南足柄市関本でのこと。 市川團十郎は山梨出身なので全く関係ありません、ただ一説には早雲に仕えた武将とも ここに地方名主惣代をしていた下田隼人(70歳代) がいた。 名主(なぬし)というのは百姓の身分でありながら、百姓をまとめ年貢の管理や書類の作成、領主との橋渡しを行うなど、村政全般を取りあつかう村の行政の長、村長のような存在で、隼人は36の村を代表していました。 その当時の小田原藩ですが、約100年に渡りこの一帯を治めていた戦国時代を切り開いた早雲から始まる北条家が天正18年(1590年)豊臣秀吉に破れ、 その後、徳川家康の重臣である大久保忠世(蟹江七本槍、徳川十六神将の1人)が小田原城主となり。その後、大久保忠隣→